五稜郭公園が、桜の名所となるきっかけは、函館毎日新聞社が大正 2年に1万号の記念として桜の苗木5,000本を寄贈、植栽したのが 始まりです。その後、昭和40年頃まで約1万本以上の桜が植栽されま したが、枯れたり伐採され現在の五稜郭公園のサクラは約1600本になりました。
五稜郭では、3月下旬から4月上旬に梅、4月下旬から5月初旬に桜、5月中旬から下旬にツツジ、6月に藤という順番です
「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で“わざわざ旅行する価値がある”に選ばれた函館を巡っていきましょう。
今回はおすすめの見方だけ説明します。
①なぜこの場所に建てたのか
②なぜ星型なのか
歴史は難しいのでこれだけで十分です。
興味がわいたら、そこから詳しく調べたらいいかと思います。
①②だけ知って訪れたら、「大きな星型の城跡」という漠然とした印象ではなくなってきっと「そうゆうことなのか」と心に刻まれるかと思います。
①「黒船来航」が五稜郭築城のきっかけとなります。黒船来航の翌年、幕府は日米和親条約を締結し、箱館を開港します。
(明治になるまで函館は「箱館」)
その際「箱館奉行所」を設置します。
当初は箱館山の麓(現在の元町公園)に置かれていましたが、ここは港に近く海上から攻められる可能性があるため防備を強固、大砲が届かないように内陸部に移転します。ここが現在の五稜郭です。
②長い鎖国が続いたあと急速に開港したため、鉄壁の防御が必要と当時は考えました。見た事もない外国人が攻撃してくるかもしれないので相当構えたみたいです。
そして防御に死角が無いとされるヨーロッパで考案された星形を参考にしたのがはじまりです。
箱館奉行所が五稜郭へ移転してから、わずか4年で大政奉還により、蝦夷地を新政権に引き継ぎます。奉行所と五稜郭を明け渡すことになります。
しかしながら、ここは半年後に箱館戦争の舞台となるのです。
幕末から明治にかけて、旧幕府軍と明治新政府軍の間で起こった日本史上最大の内戦。その最後を締めくくった戦いが「五稜郭の戦い」別名「箱館戦争」です。
箱館港に碇泊した新政府軍の軍艦は、五稜郭に向かって艦砲射撃をおこないます。
この時には、大砲の射程距離は4km以上に進化しており、港から約3kmの位置にあった五稜郭にも充分に砲弾が届く強力なものでした。
五稜郭、箱館奉行所は、外国船からの艦砲射撃を避けて五稜郭に移転したはずでしたが、五稜郭築造からおよそ10年で、大砲の性能は格段に進化していたわけです。
そして元新撰組副長・土方歳三率いる旧幕府脱走軍は敗れます。
ついに五稜郭が降伏し、7か月におよんだ箱館戦争が終結しました。
箱館奉行所には、紹介しきれないほどの幕末ロマンの深い歴史が眠っています。
諸外国の脅威に対抗するとともに日本の威信のために計画され、やがて明治政府と異なる未来を描いた者たちの夢の舞台となった五稜郭。
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらむ」
すでに盟友の近藤勇や沖田総司など仲間を失い、たった一人になっても、新選組のために戦った土方歳三の辞世の句を思いながら、